〜 「勉強」と「学習」は同じではありません 〜 その4
ご存知かもしれませんが
昨日までご紹介した論語の
学而時習之
不亦説乎
には続きがあります
有朋自遠方来
不亦楽乎
というものです
普通の書き下し文では
朋遠方より来たる有り
また楽しからずや
人知らずして慍(いきどお)らず
また君子ならずや
そして普通の現代語訳は
遠くから同門の学友が来る
なんと楽しいことではないか
人が自分を認めてくれなくても
不満を持たない
なんと君子らしいことではないか
といったところです
ここで私が不思議なのは
「朋遠方より来る有り」を
「遠くから同門の学友が来る」
と訳すことです
それまで学習の話をしていたのに
いきなり朋=友が来る話になるのが
まず不思議です
朋とはありますが
どこにも「同門の」とは書かれていません
さらに解説書などには
学問について語り合うという解説がありますが
「語り合う」とも書かれていません
朋が来ると楽しい
とだけ書かれています
しかも私の解釈では
学びて時に之を習う
だけだと「分からないまま」
の可能性もあります
私がスッキリしたのは
安富歩氏の「生きるための論語」の解釈でした
安富氏は
朋は「知恵」の比喩であって
「人間の友だち」ではない
というのです
「朋遠方より来る有り」までを
話を聞いたり
本を読んだりして
学んだとしても
その本質は
最初から分かるわけがない
そこで
時間をかけて
思いついたことを試して
あ〜だこ〜だとやってみると
「何だそういうことだったのか!」
という気づきが
ある日
向こうの方からやってくる
と解釈するのです
すると前段とスッキリつながります
書いてもいない友との語らいもいりません
分からなかったことが分かるのですから
楽しくないはずがありません
ここまでを私流に訳すと
学んだことを
あれこれと何度も試してみるのは
素晴らしいことだと思うよ
そうしていると
さっぱり分からなかったことが
スッキリ分かるようになる時が来るんだ
楽しい決まってるじゃないか
となります
〜 つづく 〜
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