「学」の古い字は「學」です
かんむりの上の真ん中にある
二つの×はやり取りをする意味があり
その両側はそれぞれ手を意味するのだそうです
手が二つあってやり取りするので
一人ではなく師と弟子が
いろいろとやり取りをする
という意味になります
かんむりは家をあらわすので
上半分で師と弟子がやり取りする家
つまり「まなびや」の意味です
はじめの頃の「
學」
には「子」はなくて
大人同士がやり取りをする場
ということだったようです
論語の中でも
弟子から問われて
孔子が答える
といったシーンがありますね
そんなわけで「学」は
師と弟子がやり取りする
という意味です
「習」の字は
上は鳥の二枚の羽で
下は「白」です
「白」は「曰」の変形で
ものを言うだけではなく
さまざまな行為を表すこと
だそうです
つまり
まだ飛び方が身についていない
幼い鳥が羽をバタバタしては
飛び方を身につけていく
という意味なのです
となると
学びて時に之を習う
というのは
師から学んだことを
時間をかけて自分でやってみる
ということでしょう
昨日の記事でご紹介した現代語訳は
教えられたことを受け入れて
そのたびごとにそれについて
復習して身に付ける
でしたが
師に言われたことを学ぶのと
受け入れるのとは意味が違います
反面教師という言葉もあるし
言われたことがわからないこともあります
さらに「そのたび」っていつのことか
意味がわかりません
学んでも身についていないし
よくわかってはいないこと
だからこそ「習う」のですから
復習とも意味は違います
そして続く
また説(よろこ)ばしからずや
を普通は
なんと喜ばしいことではないか
と訳されているわけですが
問題は誰が喜んでいるかではないか
と私は思います
「学び」「習う」のは弟子ですが
「説(よろこ)ぶ」のは師であって
弟子は必ずしも喜んでいないから
孔子はわざわざ
喜ばしくないはずがない
と言っているのでしょう
そんな風に考えてみると
私なりの訳はこんな風になります
学んだことを
あれこれと何度も試してみるのは
素晴らしいことだと思うよ
つまり「学習」とは
学んだことを
意味がわからなくても
時間をかけて
何度も自分で試すこと
だろうと思うのです
となると
孔子の言う「学習」は
将来のために
やりたくなくても
がんばって身につける
「勉強」とは
その意味するところは
かなり違うことになります
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